競馬は動物虐待か ~『今日もどこかで馬は生まれる』を鑑賞して~

批評

はじめに

2019年12月29日、新宿K’s cinemaにて

『今日もどこかで馬は生まれる』を鑑賞してきました。

 

この映画は、『映画普及を軸にして、引退馬支援のムーヴメントを作りたい』

という思いで作成されたドキュメンタリー映画で、

出演者も俳優さんではなく、一般人の競馬関係者ばかり。

 

予告動画を見ても、エンタメ的な要素がなく、

一般受けとは対極にあるような映画。

 

それでも私は、とてもこの映画を観たかった。

 

それは、一競馬ファンとして、

競馬という世界の全体を見てみたいと思っていたから。

 

競馬というものにある、光と影を

その両方から眺めて、理解し、

自分なりの競馬に対するスタンスを考えてみたかった。

 

競馬ファンの立場からは、応援している馬が1着になったときの興奮や、

サラブレッドが走る姿の、身震いするようなカッコ良さなど、

競馬の『光』の部分の魅力は十分に感じる。

 

しかし、その一方で、現役を引退した馬たちのその後の余生など、

『影』となる隠されがちな、問題点については、

曖昧な知識しか持っていなかった。

 

成績を残し、華々しく競走生活を終えた馬は、

種牡馬や功労馬として余生を暮らしていると思う。

 

しかし、活躍できなかった馬たちは、どうなるのか。

 

光の輝きが強いほど、その影も濃くなると言われる。

競馬の影の部分には、いったい何があるのか?

 

この映画には、それを考えるにあたっての気づきが沢山あった。

競馬の光と影

競馬場の入場者数は年間600万人。

読売巨人ジャイアンツの東京ドームの年間来場数が

300万人前後なので、その2倍だ。

 

そして約3,000億円ほどの税収があり

畜産と社会福祉に割り当てられているという。

日本の国予算が100兆円前後なので、その0.3%だ。

 

これが、微々たるものと感じるかは人それぞれだが

3,000億円を集めることが難しいのは想像に難くない。

 

そして、競馬はお金だけに留まらず

自分も含めた競馬ファンに向けて

多くの感動と興奮を与えてくれている。

 

私は一口馬主をやっているが、

愛馬の勝利は、それはもう多大なる感動を与えてくれる。

 

このような強い光があり、その影になっているのが

競走馬たちなのではないかと思った。

 

穿った見方をすれば

人間の業によって生産され

調教されて、捨てられる。

 

「競馬は動物虐待ではないか?」

そんな問いに、明確な答えが出せないままでいる。

 

そんな中、映画では、しきりに出てくる言葉がある。

「仕事として割り切るしかない」という言葉だ。

 

2つの疑問について

私が疑問に感じたことが2つある。

それは、

「競馬は動物虐待か?」

「競走馬を生産し過ぎているのではないか?」ということだ。

 

一つずつ、考えていきたいと思う。

競馬は動物虐待なのか

この問いに関しては、最近こんなことを思っている。

 

僕たちは、動物虐待かどうかを考えることすら

してはいけないのではないか?

 

と、いうのも、競馬に限らず

人間は動物をさんざん利用してきた歴史がある。

人間が生きるために必要な、食用の家畜はもちろん、

昔であれば、移動手段として馬を使ったり、

農作業に牛を使っていたりもしていた。

娯楽としては、サーカスのライオンや象もそう。

 

何が言いたいのかというと、

食用は良くて、娯楽は駄目というのは

人間の都合よい解釈だ。

 

動物側の立場からすると、

食用だろうが娯楽だろうが関係ない。

 

だからといって、食用に利用しないとなると

ビーガンになるしかない。

卵も牛乳も飲めない生活なんて、考えられない。

 

極論を言ってしまえば、

ペットとして犬や猫を飼うことすら

動物虐待になり得るかもしれない。

 

冒頭にもどるが、だから、

「動物虐待かどうかを考えることすらしてはいけない」

と思った。

 

ご飯を食べるとき「いただきます」と言う。

普段は礼儀として、ただ言っているだけだが、

本来は食べることに感謝するものだ。

 

こじつけがましい所はあるが、

競馬を楽しむのも、感謝して楽しめば良い。

 

これが、私の気持ちの落としどころだ。

競走馬を生産し過ぎているのはないか

2つめの大きな疑問。

これも結論が難しい。

 

現在、競走馬は年間8,000頭前後が生産されている。

これが過剰な数字なのかどうか?

 

例えば、1日12レースが3つの競馬場で開催されていて

1レースに15頭出走すると仮定するとする。

 

土日にレースがあるので、月8回、年間で96回になる。

すべてのレースを開催させるためには何頭必要だろう?

 

12レース/日 × 3競馬場 × 10頭/レース × 96回/年 = 34,560

延べ34,560頭になる。

 

1頭の馬が年間5レースに出走できるとすると6,912頭になる。

そして3年間走れるとすれば、年間2,456頭生産すれば、十分そう。

地方競馬もあることを考えると3,000頭だろうか?

いずれにしても、現在の8,000頭は少し過剰な気がする。

 

ただ、難しいところは

競馬はただレースをすれば良いってもんじゃない!

ってところだ。

 

ここに、「ホースマンの夢」であったり

いち競馬ファンが求める、最強馬の生産というものが絡んでくると

淘汰が必要になり8,000頭という数字になってくるのだろう。

 

自由競争が原則の、この資本主義社会では

仕方がないというか、必然なんだと思う。

 

仮に、1,500頭しか生産してはいけない規則ができると

社台系の牧場しかなくなってしまうかもしれない。

いや、逆に弱小牧場の復権があるのか?

それは分からないが、いずれにしても

日本競走馬のレベルは落ちてしまうはずだ。

 

「競走馬の生産が過剰なのではないか?」

という問いには、Yesとも言えるし、Noとも言える。

引退後の競走馬支援について

最後のテーマとして、「引退後の競走馬支援」について考えたい。

これが、『今日もどこかで馬は生まれる』という映画のメインテーマだった。

別に、この映画が答えを述べているわけではない。

ただ、現実に起きていることを、ありのままに伝えている映画だ。

 

この映画を観たうえで、

私の意見を誤解を恐れず言うと

「引退後の競走馬支援は止めるべき」だ

 

競走馬は人間の業で生産されたのに、

一部の馬を大事にあつかって、罪滅ぼしをした気になる。

これが最も、やってはいけないと思う。

 

食用であれば、「ありがとう」と感謝して、

食肉として食することが、

人間が生きる上で正しい姿ではないだろうか。

 

正解なんてない。

ただ、『今日もどこかで馬は生まれる』という映画を観た

私、ぴかり(夫)の率直な意見を述べた。

 

creempan
あなたにできること|映画『今日もどこかで馬は生まれる』公式サイト
https://creempan.jp/uma-umareru/you-can.html

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